「おかあさん、おしやべりだよね。」
と、娘たちの学校の先生に娘が直接言われたらしい。
「えっ?先生がそんなこと言ったの?」って聞いたら、
「そういったよ。」って・・・
確かに、おしゃべりです。よく話します。仕事ですから。
正直、ムカつきました。
「父兄のことをそんなこと言うか?ひとこと言い返さないと気がすまない、んっもう!!」
以前の私だったら、頭にきて、そのことばかりに囚われていました。「先生にクレーム出したろか<`ヘ´>」
このところ、やすきよの漫才にはまっていたので、やすしさんバリのテンションまで上がりました。
しかし、お仕事モードに入ったら忘れてしまいました。
酉年だらか、三歩歩くと忘れる性分なのかもしれません。
帰りの車の中で思いだしました。でも、その時は違いました。
頭にきいてる自分と、なんで「おしゃべり」って言われて私は腹が立ったんだろう?
という純粋な興味がわいていました。
その先生だって、生徒の母親を悪く言ったつもりはないとは思います(思いたい)が、それはその先生の問題であって、私の問題ではありません。
「私」が「おしゃべり」と言われたこと、に腹が立ったのは
「おしゃべりは悪い」「おしゃべりな人とは言われたくない」と思っているからだということに気づきました
「言いたいこと」も控えているからでしょうか?
よくご存じな方は私が「言いたいことを言わない」なんてウソウソ!!って思うかもしれませんが、以前はそんな鬱々した人間でした。
だから、腹が立ったのかもしれません。
はて、自分の内側を観てみると
「おしゃべり」=「言いたいことだけ言って迷惑」「人の気持ちを考えていない人」
という枠が私の中にありました。
だから、「おしゃべり」=「迷惑な人」と反射的に置き換えて反応したようです。
「迷惑な人」って思われたくないのです。
そこにも、嫌われたくない自分が残っていました。
「なんと言われてもいいじゃん、どんな人だと思われたっていいじゃん」と思っていながら、まだまだそのアンテナは立っていたわけです。
そんなことに気づかせてくれた出来事でした。
『自分を100%受け止めて、受け入れること。』
禅カウンセリングの目指すところはそこですが、まだまだ伸びしろはありますね~。
絶賛発展中の私は「今度会ったら、なんて言ってやろうか?!」と頭の片隅で思いながら、
きっと、その時にはどうでもよくなってるんだと思います。
自分の中のアンテナに気づいてしまったから。
「その時」が楽しみです。どんな自分を観察できるか?