「答えは自分の中にある」ことが、キネシオロジー的に腑に落ちてきました
  • 自分の中に答えがある。

すべて自分が作っている。

 

ということを最初は理解できていませんでした。

よくわかってなかったのに使っていたからこうなりました。

 

「原因は全て自分にあるのだから、その原因を探ると問題が解決するでしょう。

 

事故や病気が起こったとしても、それは自分で招いたことなんだから、自分自身をみつめてみましょう。」

 

というと、

 

「あの事故が私のせいだと言われるのなら、それは納得できません。私のせいだというんですか?」

 

と、クライアントさんに言われて、はっとしたことがあります。

 

こちらは、そんな意図で言ったつもりはなくても、クライアントさんはそのように受け取っていたんですね。気分を害された様子だったので、そのつもりではないことを説明し、その場はおさまりました。

 

当時、私は「すごい!!」と思う先生にキネシオロジーを学んでいました。

 

その先生のセッションはダイナミックで、デモンストレーションに出られた方々は皆問題を解決されていました。私も、問題だと思っていたことが問題でなくなり、「すごいな~、この先生みたいなセッションしたいな~」と何度も先生のデモンストレーションの動画をみては、感嘆していました。

 

「でも、私には同じようなことはできない、その先生だからできる。」と思えてきて、先が見えなくて、途方にくれてしまいました。

 

その先生の知識と経験の量を積まないとできないようであれば、一朝一夕には同じようなセッションなんてできない。半ば、やけになってもいました。

 

その先生のトレーニングに参加するためには、受講費も交通費も宿泊代もかさむばかりで、焦りだけがつのっていました。

 

「問題は自分がつくっている」「答えは自分の中にある」その言葉だけが一人歩きをしていて、コトバとして発しても、腑に落ちていないためか、コトバに力がなかったように思います。

 

だから、そのクライアントさんを傷つけることになったのだと、今だからわかります。

 

言葉は飾ることができる、文字にすると読むことができる。

 

人の言った言葉でも、借りていうことができる。

 

でも、そんな上っ面なコトバでは、相手のハートに響かないし、魂にも届かない。自分のハートも震えないし、魂には違和感しか感じない。

 

 

自分の内側を観るということは、自分のせいにすると同義語ではない。

 

 

自分の内側を観るということは、他人のせい、環境のせいにしないということと同義語でもない。

 

 

自分の内側を観るということは、自分の価値観で相手を判断しない。ジャッジしない。ということと全一致することでもない。

 

 

それは、自分の内側みるということの入り口でしかない。

 

 

 

ということが、禅カウンセリングを何度も繰り返しワークすることで、わかってきました。

 

 

キネシオロジーのいろんな先生に学ぶことで、やっと最近腑に落ちてきました。

 

 

それが、正解かどうかわかりません。

まだまだプロセスの途中なのだから、完璧に解った!!という訳でもありません。

 

この先も、事あるごとに自分の内側を観ることを繰り返していくうちに、さらに確信をもっていくでしょう。

 

というのは、自分の内側に答えを見つける度に、自分自身に対する信頼は増してきたからです。

 

すると他人に対しても、「その人の中に答えがある」ということを信頼できるようになりました。

 

すると、「なんで、あの人はあんな事をするのだろう?」と思わなくなりました。

 

「なんで、あんなことをいうんだろう?私だったらこう思うのに」と考えなくなったから、とても楽になりました。

 

まだ、まだ、「どんな時も」「どんな人も」という訳ではないけれど、かなりの確率で以前よりエネルギーの無駄遣いは避けられてきました。

 

いろ~んなことが、複雑に絡まっているようにみえるけど、実はシンプルな世界。

 

このシンプルな世界をシンプルに楽に

ごっちゃごっちゃ考えずに

自分らしく、ありのままに、自由に生きていきたい。そう思います。

 

禅カウンセリングとタッチフォーヘルス・キネシオロジーに出会ったことが大きなきっかけになりました。

 

タッチフォーヘルス・キネシオロジーって何?って思ったら、ググると同時にこちら(五日間でわかるキネシオロジー入門)も読んでみて下さい。