「頑張る・努力する」をやめて手に入れたもの
人は重石がとれると気が抜けたようになり、ふわふわして、ぼーっとしてしまいます。
一生懸命頑張ってきた人が、「頑張ることをやめよう」と決めると、そうなります。
まぁ、私の話なんですが・・・ね。
「頑張る」ことで得てきたものが偽物だったと気づいた時のショックは大きかったですね。私も。
一体何のために頑張ってきたんだろう・・・って自己嫌悪にもなりました。
その自己嫌悪が明けると、「もう、頑張らない!!」と決意しちゃったりしました。
「頑張って」という言葉に違和感を覚えました。
でも、頑張ることしか??してこなかった自分は、「頑張らない」と何をしていいかわからなくなりました。
頑張らないつもりが、周りからは「頑張ってるね、すごいね!!」なんて言われると、さらにショックでした。
「頑張る」ことに罪悪感を感じていましたね、その頃は。
「努力」なんて、言葉は辞書から破って捨ててしまいたいくらいでした(笑)
でも、「頑張る」という重石で自分に圧力をかけていたから、その重石を外すと、ふわふわし出して、一体何をどうやったらいいのか?落ち着かなくなりました。
だから、アレコレ手を出したりして、試行錯誤なのか、虻蜂取らずなのか?まさに混沌の毎日。
当の本人は精一杯、「頑張らない努力をしている」状態。
頑張らないはずだったのに、仕事と学びで休みもないくらい動いてました。
そんな中で、ひとつの転機が。
「発達支援コーチ」の講座でした。
子供の発達のためにと思って学び始めた「発達支援コーチ」の講座
子供の発達は「やりたいことを、やり切る」ことで次に進んでいく
「やりたい」と思ったら、できなくてもやってみる
最初はできなくても、何度もやってみる
そういえば、小さい子供は繰り返しが大好き♥
うちの子供達にも「ま~、ま~(もう一回)」と、何度もせがまれた想い出があります。
できなくても、やってみる。そこに、発達があるんだということ。
自転車乗れないけど、乗れるようになりたいから、何度もやってみる
この写真のようにボールを触りたいから、全身で前に進もうとする

そこに「頑張ったね」という評価をするのは大人の視点
本人は頑張ったつもりなんかなくて、ただ、自分のやりたいことを思いっきりやっただけかもしれない
「頑張る」が目的じゃなくて、「〇〇する」が目的。
「〇〇をしたい」だけ。
そうか!! 自分がやりたい、かどうか?だけだ。
誰かのために頑張る、とかじゃなくて、自分がやりたくてやる
大人(誰か)が褒めてくれるから頑張るんじゃなくて、自分がやりたいからやる
外から設定された目標じゃなくて、内発的な・自分の内側から出てくる目標
上手にできることはつまらない
もうちょっとでできそうだけど、できない
これが楽しい
だから、自分が何をどうしたいのか?内側から湧き上がってくるものを抑えないこと
大人になると、経験とか常識とか人目とかが邪魔して、その湧き上がってくるものを歪曲させたり、隠したりしてしまう。無意識的に
それまでは、頑張るという軸があったけど、それは外からの重石でした。
それにとって代わるのが、自分の軸
自分という軸があると、地に足がついていて、落ち着いていられます。
こんなことも、そんなことも書いてある本はいっぱいあるけど、実際に体験するとその重さがずっしり身に染みます。
本来、感覚的な自分なのに、理屈で説明しようと「努力」してきただけでした。
「理屈」で納得する人達に認めてもらいたいがために。
だからこそ、感覚・直感を信頼して、自分の軸を元に動いたり、止まったりしていけばいいんだ、という所まで到達した感じです。最近・・・
いろんな事を学び、いろんな人に出会って、自分の内側を観察して、今ここにあるという感覚がやっと持てるようになりました。
大人も「絶賛発達中」といわれますが、正に私自身その通りです。
「発達支援コーチ」の講座に出会えたのが幸いでした。
子供のため…なんて言っていたのに、結局は自分が多大なる恩恵を受けていました。
だからこそ、今後は発達支援コーチとしても活動していきます。
私にとって、キネシオロジーも同じです。
結局は「自分」という在り方を探求していくことです。
探求っていうと難しく聞こえるけど、
その瞬間、
何を食べたいか?
何を見ていたいか?
どんな風に感じてるか?
気持が揺れているか?
心は穏やかか?
地に足がついているか?
幸せを感じているか?
魂は喜んでいるか?
そんな風にいろんな自分を味わいながら、人生を全うしていく。
きっと、魂がこの肉体を離れるその日までね。